日記は筋トレだみたいなことをよく言うけど眠い頭で書いているので、毎日間違った呼吸、間違った姿勢で筋トレしている感じがする。ちゃんと気がついています...。
そもそも1日の終わりに書くと言うのが間違っている。思ったことを思った時に書くのが1番いい。
でも思ったことが細切れの場合どうしたらいいんですかね。
屋外でキチッと座って動かない人を見るとどうしてか心配になる。
日当たりの悪い、植え込みのそばに腰を下ろしていた人がいた。
日向ぼっこって感じでもなかったし、顔色も悪かった。表情も意味わかんなくて、ちょっとだけ何かに期待したような顔をして微動だにしなかった。
約束をして遊ぶのが初めての人を駅で待っていた時、暖かかったので駅の花壇に座っていたのだが、待ち合わせに遅れてやってきたその人はわたしを見つけるや否や
「え!?なにしてるんですか!?そんなとこで!やめてくださいよ!」
と、言った。
わたしは日向ぼっこしてただけだったんだけど、悲しくなって小さい声で「暖かかったから...気持ち良くて...ごめんなさい...」と、言うしかなかった。
お昼休憩で行ったドトールの店員さんの表情が最近少し柔らかくなった気がする。私を一人の人間として認識し始めたのが分かった。目を見てありがとうございますって言ってくれる店員さんが好きだ。胸の底の方がちょっと踊る。
自分がそれなりにたのしく穏やかに生きてたら、1日のうちにちょっとだけ関わるレジの店員さんとかを優しい気持ちにさせられたらいいのにな。
本のことがよく好きで良く考えている。
久しぶりにあった友達と「最近本読めてないんだよね〜」という話をしていると
「え〜!めっちゃ読んでるでしょ?」
と、言われる。
本を読める時期読めない時期あるが、読めないことをプレッシャーにするのはやめようと思った。
本を読みたいという気持ちも十分な読書体験だから悲観しないでということを多和田葉子が言っていたと何かで読んだ。多和田葉子が言うならそうに違いない。
本を手に取りたいとか、本を自分のそばに置いておきたいとか、目線を文字に滑らせたいとか、みんなが思うことじゃないのかもしれないから自信を持とう。
本のことを考えているだけで、本をたくさん読んでる人だと思われてるんだから。やっぱり多和田葉子はすげー。
今日は久しぶりに四六判の本を半分くらい読んだ。
書くことは自分を救うことだと良くいうがが、この表現に出会うたびちょっと違和感を覚えてしまう。
わたしはまだそこまで行けてないって感じなのか、違う場所にいるのかわからないけど。わたしは小さな人間なので、書かなきゃすぐ容量がいっぱいになってしまう。書かないと、文字が醜いものになって口から吹き出てきてしまう気がするから、書くしかない。自分が書いたものを読んで「すごくよかった。わたしも考えてたことだった」と言われて、またそう言われたくてやってる。
それでも共感してほしいとか、共感できる人を見つけたいってことじゃなくて、共感できる人がたくさんいるならみんなで大丈夫になろう。自分の言葉で思っていることを話せたら、生きて行く時にぶつかってくる何かをやっつけたりかわしたりする方法がわかるかもしれないから。
本のことが好きだけど、物語が好きなわけじゃない。新しい言葉に触れて、心が整理されていく感覚が好きだ。他人が何を考えてるかわかるからエッセイが好きだ。それでも日記の良さがわからない。パートナーがこう言った、なんてこと知りたくない。悲しい。わたしにはパートナーがいない。あなたがどう思ってるか知りたかったのに。
本を出すような人はパートナーがいる。散々生きにくいと言っているくせに。と思っちゃう。
パートナーなんて言葉を使うのはもうやめよう。
やめよ。
パートナーが欲しいなんて思ってないのに、パートナーがいる人のことが羨ましい。自分の中で作り上げた恋愛至上主義と戦え、俺。
羨ましいなんて大して思ってないくせに、この虚しさに羨ましいという言葉が一番近い。この頭には何にも入ってない。それでも自分しか信じられない。
おひとり様初心者すぎて恥ずかしくなる。いろんなことをゆっくりちゃんとわかっていきたい。
社会がとか、みんながとか、考えないで自分をわかりたい。
自分が本当に思っていることをはっきりさせたい。
脇毛もすね毛もぼーぼーだけど下着の洒落た人になりてえよなあ。