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57 (2/26)

数字も日付もただの数字としか感じられない。

自分の感情にとことん向き合っていたら、2月というものにしっくり来ることなく2月が終わりそうだ。

2月って毎年短くて2秒くらいで終わると思ってたけど、今年は長かった。もう、終わらないんじゃないかとまで思った。

 

大好きだったおばあちゃんの声も去年の8月に聞いたのが最後だった。自分が“本当に望んでいること”に向き合おうとしている間に、会っていなかった時間だけが広がって行ってしまった。「わたしが生きている間は、あなたはわたしの孫よ」と言って大人になったわたしたちにお年玉をくれていたが、わたしが死ぬまでおばあちゃんはわたしのおばあちゃんですよ。

おばあちゃんにしてもらって嬉しかったことを、これから人にもたくさんしてあげられる気がするし、もうすでにやっていると思う。誰かにたくさん愛情を注いでもらっていたことが自分をこんなに強くしてくれると知ったのは最近だった。だからちょっと寂しいけど、悲しくはないです。

十分すぎると言ってもいいほどの愛をもらって、ここまで大きくなりました。

最後に会った時の優しくてかわいい表情をずっと忘れたくない。

 

 

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今日について書こうと思ったら、2月のことを思い出した。

こういう気持ちを胸に、スラムダンクの映画をもう一度見に行ったりしている。日常とか、いつも通りとかっていろんな気持ちの上に成り立っていて、そういう日常は生まれて初めてだ。

いつもと変わらないことなんてマジでなくて、参る。

 

自分の中の「本当はこうしたかった」みたいな気持ちとどう付き合って行くかを最近ずっと考えている。自分の望みを叶えると結果感情的になってしまって他人を遠ざけてしまう。

中途半端な人間関係をたのしんでいればいずれ向こうが離れて行く。友達一歩手前くらいに思っていた人とぶつからなくては行けなくなる。わたしにはぶつかる体力があるからぶつかるけど、何感情的になってんのとか思われてみんなどこかへ消えていってしまう。こちらから近づいたつもりなんてないのに。

「ムラタさんは感情的になりすぎる」とよく言われるが、わたしから感情を取り上げたらどうなるんだよとも思うし、あの時ああいうふうに感情を外に出さなければどうなっていたんだろうなとも思う。それでもやっぱりわたしは感情を悪いものだと思ったことがない。「感情的になりすぎている」とわたしに言う人たちは、切実な思いを感情と区分するのかよくわからない。感情的になるなってよく言うけど、誰から借りてきた言葉なの?感情的になっちゃいけないシュチュエーションってなに?わたしは自分の感情に冷静だよ。

感情のことが好きだ。

感情的という言葉を使って他人をコントロールしたがっているお前の感情ほど醜いものはない。物事を穏便に済ませようとする大衆の態度が、弱いものや小さな声を踏み潰してきたのだと思う。

誠実さがあれば、感情を表に出すことだって恥ずかしくもうるさくもない。

正しく怒っている人のことが好きだ。

目一杯喜べる人が好きだ。

ちゃんと泣ける人が好きだ。

 

他人の感情に指図してくる人間が感情以外の何で生きているのかちょっと気になっている。